縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん, Konda Gobyoyama Tumulus)は大阪府羽曳野市に所在する前方後円墳である。「誉田山古墳」ともいう。宮内庁は「応神天皇陵古墳」と呼ぶ。
誉田御廟山古墳

概要

古市古墳群?のひとつで、日本一体積が大きい古墳とされる。面積は大仙陵古墳?についで二番目であるが、封土量では大仙陵古墳28,094m3多い。宮内庁が管理しているため、立ち入った学術調査ができない。高橋逸夫の墳丘土量計算によれば、1,433,960m3とされる。

構成

墳丘は三段構成で、左右のくびれ部両側に方壇状の造出しがある。この種の古墳の標準形とされる。墳丘は三段築成で前方部の西側の稜線が多少崩れているが、そのほかは明確である。
墳丘の周りに二重の濠と堤がある。外濠の多くは田圃に使用されているが。東側と北側は、明確である。内濠と外濠の間の土堤は幅が広い。
墳丘と内堤の内外の法面に葺石が敷かれている。墳丘の平坦部と内堤・外堤に円筒埴輪が巡らされる。墳丘内部は調査されていないため不明であるが、竪穴式石槨と長持形石棺があると見られている。

規模

大仙陵古墳?(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模となっている。
  • 墳丘長 約425メートル、(420m、415m説あり)
  • 後円部直径250メートル、(252m、267m説あり)
  • 後円部高さ35メートル、(36m説あり)
  • 前方部幅300メートル、(330m説あり)
  • 前方部高さ36メートル(34m、35m説あり)

副葬品

埴輪は朝顔形円筒埴輪、形象埴輪(家型埴輪・器財埴輪、動物埴輪、蓋・盾・靫・草摺・短甲形、水鳥形(8体)、馬形)など。土製品は魚形(クジラ・イルカ・タコなど)。木製品は蓋形、鋤形、板状、棒状、天秤)棒状、傘状など。宮内庁、京都大学、東京国立博物館などに保管されている。

陪冢

東山古墳、アリ(蟻)山古墳(消滅)、誉田丸山古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳は、推定築造時期から誉田御廟山古墳の陪冢とも考えられている。そのほか盾塚古墳、珠金塚古墳、鞍塚古墳などがある。これらの陪塚からは多量の鉄製武器、武具を中心とした鉄製品の埋納が認められている。
丸山古墳は嘉永年間に発掘され、副葬品として、金銅透彫鞍金具と、金銅轡鏡板(馬具)、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などが発見されている。金銅透彫鞍金具と金銅轡鏡板は国宝に指定され、現在は応神天皇陵の南側にある誉田八幡宮で保管されている。二つ塚前方後円墳は誉田御廟山古墳に周濠がこの古墳を避けて作られていることから、陪塚ではなく、より古い時期の築造と考えられる。

築造時期

築造された時期は5世紀初頭とみられる。しかし異説もある。金銅透彫鞍金具の朝鮮半島の盛行年代から5世紀代でも末期から6世紀初めとする説がある。

被葬者

実際の被葬者は特定されていない。宮内庁は応神天皇陵に治定している。

日本書紀と古事記

誉田御廟山古墳の周濠
古事記』には、「御陵在川内恵我之裳伏岡也」と書かれる。。「恵我(ゑが)」の領域は、現在の石川の流域の西側から東徐川流域にかけての藤井寺市、羽曳野市の比較的広い領域と考えられている。『日本書紀』には、「応神天皇陵」に関する直接的な記載はみられない。雄略天皇九年[西暦四六五年に相当]秋七月の条の中で、有名な「埴輪馬はにま伝承」の一節に、河内国言として「蓬蔂丘の誉田陵」という陵名が記されている。
 『延喜式』(西暦九二七年編纂)巻二十一諸陵寮には、「恵我藻伏崗陵、在河内国志紀郡、兆域東西五町南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と書かれ、『扶桑略記』には「高五丈、方五町」と書かれ、一町は約109mなので、墓域は約545m×545m相当とみなしていることになる。現在、外濠を含めると、南北は五町三七間ある。

日本書記の埴輪

ある晩、一人の男が孫の誕生を祝って訪れた娘の婿の家でのお祝いの月夜の帰り道に、たまたま応神陵の下を通りかかったところ、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何とも素晴らしい姿かたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は喜んで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、鞍を外しまぐさを与えて床についた。
さて次の日の朝、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった埴輪が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、取りかえた自分の馬が立っていた。早速、馬と埴輪を取り換えて帰ってきた。(『日本書紀』雄略天皇九年条)

指定等

  • 世界文化遺産?「百舌鳥・古市古墳群」のひとつとして2019年7月6日登録されている。

アクセス等

  • 所在地:大阪府?羽曳野市誉田6丁目11-3
  • 交通:近鉄南大阪線・土師ノ里駅?より南西へ約1.2km 徒歩約18分。

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
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