観音寺山遺跡(かんのんじやまいせき)は弥生時代後期の集落遺跡である。中高瀬観音山遺跡とは別の遺跡である。
1960年代の日本考古学会では観音寺山遺跡は「高地性集落」として理解されてきた。つまり稲作の可能な低湿地から遠い丘陵上の集落であるため、立地の特殊性は弥生時代の戦乱と結びつけて考えられてきた。高地性集落は小野忠熈博士が山口県東部の弥生遺跡朝で最初に着目した。岡山遺跡(山口県周南市)や天王遺跡(同前)など丘陵の上の弥生集落に濠状施設により囲まれた竪穴住居を発見した。小野博士は濠状施設を集落防御のための施設と考えた。梅原末治は北部九州の弥生時代中期中葉の須玖式土器に後漢末の青銅鏡と考えられていた虁鳳鏡が共伴するとし、その時期を二世紀後半とした(参考文献4)。
『後漢書東夷伝倭人条』に二世紀後半となる140年から180年頃に倭国で戦乱ないし政治転動乱があったと記されている。
さらに佐原真は紫雲出山遺跡の発掘調査報告書で、弥生時代中期の弥生遺跡から打製石鏃が極端に大型化・重量化することを指摘し、戦乱に対応する武器と考えた(参考文献5)。
『後漢書東夷伝倭人条』に二世紀後半となる140年から180年頃に倭国で戦乱ないし政治転動乱があったと記されている。
さらに佐原真は紫雲出山遺跡の発掘調査報告書で、弥生時代中期の弥生遺跡から打製石鏃が極端に大型化・重量化することを指摘し、戦乱に対応する武器と考えた(参考文献5)。
竪穴住居は120軒近く検出されている。サヌカイト製石器(石鏃・尖頭器など)や礫石器(敲石・磨石・石皿・投弾など)が多数出土した。サヌカイト製の打製石器は320点が出土している。多数の武器類と考えられる石器(石鏃・尖頭器・投弾など)は戦乱があったと想定される。しかし、集落成立の初期である弥生後期前葉だけ武器類を必要とする状況があったと考えられている。投弾と呼ばれる円礫を研磨した石器が93点出土した。戦闘用の石器と考えられている。
石包丁が10点出土したことから近隣の低湿地で稲を収穫していたことが判明している。
堅果類加工用の調理を行う石器(磨石・石皿など)が多数出土することは、平野部での水田耕作による米よりも山地の植物を多く利用した食生活を営んでいた可能性も考えられる。
大阪湾南岸部で見られる蛸壺が多数出土している。住民は沿岸部で行われていた漁労に関わっていたと思われる。
石包丁が10点出土したことから近隣の低湿地で稲を収穫していたことが判明している。
堅果類加工用の調理を行う石器(磨石・石皿など)が多数出土することは、平野部での水田耕作による米よりも山地の植物を多く利用した食生活を営んでいた可能性も考えられる。
大阪湾南岸部で見られる蛸壺が多数出土している。住民は沿岸部で行われていた漁労に関わっていたと思われる。
観音寺山遺跡の集落は弥生時代後期のみに機能した集落と考えられている。等高線に沿って作られた大溝と尾根上に作られた中小規模の溝とが検出されている。住居群は3つあるが、それぞれの住居群が環濠で囲まれていた。環濠は幅3mを超え、深さは2mであり、断面はV字形である。造成には集落のメンバーの大規模な協働を必要としたであろう。集落の居住区が形成されるときに社会的緊張状態があったことが想定される。集落形成の初期段階では濠や区画溝を必要としたが、弥生時代後期前葉の段階で埋没していた。つまり初期には防御施設が必要であったが、不要になって埋められたと考えられる。集落規模は100人前後と想定されている。後期中葉や後期後葉になると集落の人口は減少傾向をたどる。100年を超える長期継続した遺跡であり、争乱時のみの理事施設ではなかった。
国内外での学術的な調査研究活動によって収集された多数の考古・民族・民俗資料、古文書・浮世絵などの歴史資料を収集・展示
- キャンパス:同志社大学 京田辺キャンパス
- 所在地:〒610-0394 京田辺市多々羅都谷1-3
- 交通:「興戸」駅から徒歩15分
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