縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

紀年論(きねんろん)は『日本書紀』に記載された紀年には実年代との矛盾があるため、これを学問的手続によって解決するための方法論である。

概要

日本書紀の「紀年」とは天皇の代ごとに年数を元年から順次1年ごとに年数を数える方法である。たとえば「神武元年」「神武五年」などである。

紀年の矛盾

倉西裕子(2003)によれば、「紀年」の矛盾として次の3点を挙げる。
  1. 『日本書紀』巻9の神功紀にみられる年代的不整合
  2. 国内外の諸史料と応神紀以降の歴代天皇の在位期間との不整合
  3. 歴代天皇の在位期間や宝算における非現実的数字

神功紀にみられる年代的不整合

神功摂政66年に「この年は、晋の武帝の泰初二年である。晋の起居によれば、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳を何度もして貢献した(六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」と書かれる。泰始2年は、西暦で266年である。すると、神功摂政元年は201年となる。
ところが神功摂政66年記事に「百済の枕流王が亡くなった。王子の阿花は年少であったため、父の辰斯が王位を奪って王となった(六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王) と書かれる。枕流王は385年11月に在位2年でなくなっている。
ここから、神功摂政元年は西暦321年(=385-65+1)となる。
すなわち、神功摂政元年は201年と321年とで、120年の差が生じる。これが年代的不整合の内容である(倉西裕子(2003))。
このことを最初の指摘したのは、明治期の歴史学者の那珂通世である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料『百済記』と同じ干支であるが,120年の差があることから,両紀の紀年は120年(干支2運)くりあげられていることを論証した。

在位期間や宝算における非現実的数字

『日本書紀』と『古事記』とで、天皇の宝算がことなる。また非現実的な没年齢が記される。
一例を挙げると次の通りである。
No天皇名代数日本書紀宝算古事記宝算
1神武1127歳137歳
2考安6137歳123歳
3崇神10120歳168歳
4垂仁11140歳153歳
5景行12106歳137歳
6応神15110歳130歳

天皇の在位期間の史料間の不整合

日本書紀の編年をそのまま使うと、『宋書』倭国伝、『梁書』倭伝に登場する倭の五王のうち「讃」「珍」「済」はすべて允恭天皇のときになってしまう。なぜなら、允恭天皇の在位は411年から453年であるが、「讃」の遣使は421年と425年、「珍」の遣使は443年と541年、「済」の遣使は462年である。「武」の遣使は478年(雄略在位)、502年(武烈在位)となる。

春秋二倍暦説

在位期間や宝算における非現実的数字を解消するため、春秋二倍暦説が提案されている。春秋二倍暦説が正しいとすれば、神武は64歳・崇神は60歳・応神は50で崩御そしたことになるから、非現実的数字ではなくなる。ただし、春秋二倍暦説の証明は不十分である。

参考文献

  1. 倉西裕子(2003)『日本書紀の真実』講談社
  2. 金富軾著、井上秀雄 訳(1983) 『三国史記』 第2巻、平凡社
  3. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店

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