銀壺(ぎんこ, silver pot)は、正倉院に保存されている銀製の大型の壺である。
同じ形で同じ寸法の銀壺が2組伝わっている。甲と乙である。肩が張り、底が丸くすぼまった鉄鉢型の銀製の輪台付きの壺である。高台は別材で、本体の底を高台の輪の中に落とし込んで設置する。僧が托鉢すなわち食物を得るために用いる鉄鉢に似た形状である。精緻な魚々子を施す。
胴部には羊・鹿・カモシカ・猪・兎などの動物を追う12人の弓を射る狩猟騎馬人物が線刻される。輪台には有翼馬、猛獣、猛獣使いが表される。文様の間の地は密な魚々子地(径1mm前後の小円を鏨でびっしりと打つ)が打たれる。飛鳥、蝶をあしらった空間に葡萄唐草の文様を巡らせる。
高台には本体と同じ騎馬人物のほかに、麒麟や鳳凰が刻まれる。
高台には本体と同じ騎馬人物のほかに、麒麟や鳳凰が刻まれる。
「バルティアンショット」と呼ばれる狩猟人物が振り向いて矢を放つ図様や有翼馬、猛獣使いはササン朝ペルシャの影響を受けている。銀器は西方の意匠を取り入れ、唐で製作された舶来品の可能性が高いと言われてきた(河田(1992))。
しかし奈良国立博物館の吉澤悟・列品室長(考古学)は唐の金銀器と比べて魚々子打ちのう技法が未熟で魚々子の間隔が離れていたり、間隔に微妙なずれがみられることを指摘した。刻線も唐でみられる「蹴彫り」を確認できなかった。中国製の魚々子打ちには失敗がみられない。
狩猟文については同じ姿の騎馬人物が複数回登場し多様性がないこと、原図を写したような硬さがみられることなどから、中国の原図をもとに国内で転写や合成を行ったものと推測した(吉澤悟(2017))。
しかし奈良国立博物館の吉澤悟・列品室長(考古学)は唐の金銀器と比べて魚々子打ちのう技法が未熟で魚々子の間隔が離れていたり、間隔に微妙なずれがみられることを指摘した。刻線も唐でみられる「蹴彫り」を確認できなかった。中国製の魚々子打ちには失敗がみられない。
狩猟文については同じ姿の騎馬人物が複数回登場し多様性がないこと、原図を写したような硬さがみられることなどから、中国の原図をもとに国内で転写や合成を行ったものと推測した(吉澤悟(2017))。
- 名称:銀壺 乙
- 倉番:南倉 13
- 用途:調度
- 技法:金工鍛造
- 寸法:口径42.9 胴径61.3 総高46.6 壺重35.1kg 台重7.1kg
- 材質・技法 :銀鋳造・鍛造 毛彫 魚々子地 部分鍍金
- 1946年 - 第1回
- 1959年 - 東京国立博物館、皇太子殿下御結婚記念。
- 1987年 - 第39回
- 1995年 - 第47回 (乙)
- 2010年 - 東大寺大仏−天平の至宝−展(東京国立博物館)
- 2022年 - 第74回
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このページへのコメント
国内製造としても唐の職人が技術指導しない限り模写も困難では?。日本に工房がすでにあったとしたら同様な銀金製品は発見確認されているのかな?。
第56回正倉院展にでた「佐波里蓋」には魚々子がありますが、こまかく見るとやや粗雑な魚々子の打ち方にみえます。魚々子は円になっていないものがあります。唐の職人が技術指導したなら、もう少しうまくできそうです。第64回正倉院展にでた瑠璃坏の台脚裾は比較的疎らな打ち方で、韓国・弥勒寺西九重石塔発見の金銅製舎利外壺と共通性があるため、百濟製とみられています。
宮内庁にある金銅四鐶壷は飛鳥から奈良時代のもので、錆がかなりあるが、拡大してみると、魚々子が打たれていることが分かります。明治11年(1879年)に,奈良県高市郡明日香村大字豊浦小字古宮(当時,堺県高市郡和田村古宮)より出土したものです。