縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

斯馬国(しまこく)は、魏志倭人伝に記された倭国のひとつである。

概要

日本交通史研究の内藤湖南は斯馬国を志摩国(三重県)に比定したが、丸山雍成は「翰苑」中の「邪届伊都傍連斯馬」という一文があることから、斯馬国は伊都国のそばにあると解釈した。伊都国は、現在の糸島市怡土(いと)付近とされている。斯馬国は、伊都国(怡土郡)に連なっているところであるなら、その近くの「シマ」という音に近い地名の場所として現在の糸島半島の糸島市志摩町を含む一帯が挙げられる。糸島半島は、糸島市志摩町と福岡市西区の一部からなり、律令時代以来筑前国志摩郡と呼ばれ、「志麻」、「嶋」とも記される。正倉院の日本最古の戸籍とされ、国の重要文化財に指定されている「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」(大宝2 年 702 年)に「嶋郡」と書かれる。

疑問点

伊都国まで来ているのに、その近くの斯馬国は遠くてわからないと書かれるのは矛盾しているように思われる。音が似ているだけで比定するのはいささか安易に見える。

魏志倭人伝

大意

女王国より北は、その戸数、道里の略載を得られるが、その余の旁国は遠いため、詳しく述べることができない。次に斯馬国有り。

原文

  • 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  次有斯馬國

一の町遺跡

2003年に福岡県志摩町の「一の町遺跡」で、弥生中期後半(1世紀)としては国内最大級の建物を含む大型建物群跡が見つかっている。福岡大学の武末純一?教授(考古学)は「中国の史書『魏志倭人伝』などにある『斯馬国』の拠点集落だった可能性が極めて高い。大型の2棟は祭殿か貯蔵関係の管理棟と考えられ、貴重な発見だ」と語る。

内藤説

内藤(1929)は「本居氏は筑前國志摩郡か或は大隅國噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て櫻島とす。余は之を志摩國とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて聲音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を擇び取るに在れど、こゝには唯だ其の擇び取れる結果を示すのみ。以下皆此に倣ふ。」とする。すなわち内藤説では斯馬国を志摩國に比定する。条王国=邪馬台国とすれば、それより東にあると地点とすれば妥当にみえる。志摩國は現在の三重県現在の三重県鳥羽市の全域と志摩市の大部分の大部分である。ただ、鳥羽市や志摩市に3世紀の遺跡がないと比定の根拠がなくなる。鳥羽市には贄遺跡?がある。志摩市の付近に奥ノ田頭遺跡?があり、津市には納所遺跡がある。時期と規模では納所遺跡が適合する。これらのいずれかは候補地になるだろう。

参考文献

  1. 丸山雍成(2002)「邪馬台国への道:『翰苑』 所載の斯馬国推定地の発掘資料との関係について」交通史研究/51 巻(大会発表要旨, 第28回大会・2002年度総会報告)」
  2. 塩田泰弘(2016)「魏志倭人伝を考えるー斯馬国について」季刊古代史ネット7号
  3. 最大級の建物遺構発見」四国新聞,2003年2月26日
  4. 内藤湖南(1929)「卑彌呼考」『読史叢録』弘文堂

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