縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事は「短里」で書かれているとする説である。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里約 76〜77m」としているようだ(古田武彦・谷本茂(1994))。この計算では、末盧國から伊都国まで38kmとなり、30.6kmに近くなる。しかし、漢代に「短里」が使われていた確実な証拠があるかどうかが問題となる。
山尾幸久(1986)が詳しく論じている。山尾によれば、中国の公定尺は『晋書』律歴志と『随書』律歴志が基本資料となる。中国の学者の計算では、周尺・前漢尺は23.1cm、後漢尺は23.8cm、魏尺は24.2cm、東晋尺は24.5cmになるとされる(薮田(1969))。
中国の古い物差しも出土している。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmで、バラツキは7mm以内とされる(山尾幸久(1986))。三国時代の魏の遺品は正始五年の銘を持つ弩機の尺が24.3cmであった。3世紀の中国で使用されていた1尺は24cm前後といえる。
3世紀においても「里」は「歩」が基準で、「歩は「尺」と関係づけられる。『春秋穀梁伝』によれば、300歩四方の土地を里といい、その1辺も「里」と称した。
この「歩」は今でいう1歩(いっぽ)ではなく、1復歩(ふたあし)を指す。つまり約1.4mである。『史記』秦始皇帝本紀に「六尺を歩となす」と書かれる。
したがって、1里の長さは以下となる。
 1里=300歩=1800尺=1800×23cm=414m
これはいわゆる「長里」である。
洛陽と遼東の距離を『三国志』は四千里と書く。これは長里計算では1656km(=4000×414m)となる。現実は1740kmなので、それほど違和感はない。「短里」とすると、300km程度しかないことになるから、現実には合わないことになる。魏志倭人伝だけが「短里」だったとする奇説があるが、合理的な根拠がなく採用できない。

参考文献

  1. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  2. 古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
  3. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
  4. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号

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