縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

万年好奇心少年は、本名不明であるが「古代史の散歩道 など」ブログの筆者である。誤読・誤解に基づいて、諸説を批判している。匿名のため、以下ではブログのプロフィールに「1行紹介 70代入りした万年好奇心少年です。」と書かれていることから(参考文献1)、「万年好奇心少年」と呼ばせて頂く。

「鳥越 憲三郎」批判について

  • 『「三国志」観〜いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている。
  • (引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。
  • 「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。
  • 万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。
  • 「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。
  • 「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。
  • 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。(1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。(2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。しがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

大作冢

万年好奇心少年は「念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、大勢が寄っての意であり、「大冢」と言う意味では「全く」ない」と書く(参考文献14)。この部分の解釈は「大勢が寄って」と人数と解釈するものではない。石原道博は「大いに冢を作る」と大規模を示唆する(参考文献11)。小南一郎は「大規模に冢が築かれた」として、サイズが大きいと示す(参考文献12)。藤堂明保は「大規模に直径百余歩の塚を作っていた」とする(参考文献13)。つまり工事に従事した人数と解釈するのは誤りで、結果として作られた冢のサイズをいうのである。万年好奇心少年のいう「盛り土は、高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない」(参考文献14)は解釈として誤りである。

徇葬

万年好奇心少年は「狥葬者奴碑百餘人」(三国志原文)について、『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる』と書く(参考文献14)。この解釈は誤りであるからその理由を書く。第一に、三国志夫餘伝に「其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數」と書かれる。はっきり「殺」と書かれている。第二に小南一郎は「奴婢百人以上が殉葬された」と解釈している(参考文献12)。石原道博は「殉死する者は奴婢百余人」と明快である(参考文献11)。藤堂明保は「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」と少し踏み込んでいる(参考文献13)。つまり、原文は殉葬があったとしか解釈できないのである。万年好奇心少年の解釈は誤りといえる。

万年好奇心少年による白石太一郎氏批判

万年好奇心少年は、白石太一郎氏の講演「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」を一部引用して、批判を行っている(参考文献15)。当該講演を筆者は聞いていないので、ブログに提示された引用が正確かどうかは定かではない。また講演自体は刊行や公表もされていないので、内容を確認できない。そこで引用が正確なものと仮定して、内容に問題がないか以下に検討する。
  • 邪馬台国の所在地論争について
まず「(白石氏の)専門外の文献史学に対するご指摘」(参考文献15)についてであるが、「基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていない」と白石氏が語ったとされる。この発言は白石氏としては不思議なものではない。その証拠に白石氏は著書で「(魏志倭人伝)史料だけでは邪馬台国の九州説と近畿説の決着がつかない」(参考文献16,p.70)と書いている。
万年好奇心少年は「文献史学による合理的で単純明快な『問題』解明が妨げられ、世人の疑惑を招いている」と書いているが、文献史学だけで言われるような合理的な解明は誰にもなされていない。故に白石氏が「問題」解明を妨げていると書くのは不当である。白石氏はむしろ考古学の助けにより、文献史学の限界を突破しようとしているのである。
  • 大型前方後円墳の出現年代
大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。万年好奇心少年は「力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではない」と書くが、この大型前方後円墳とは箸墓古墳以後の古墳をいうので、批判する場合はまずそれらが3世紀中葉ではないことを証明しなければならない。それなくして「無根拠の幻想」と書くべきではない。批判するなら、まず自分の主張が正当であることを証明しなければならない。
  • 考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考える
万年好奇心少年は「手前勝手などんぶり勘定」と評するが、その主張の根拠は示されていない。万年好奇心少年は考古学的研究の内容を知らずして、不合理な批判だけを声高に言っているだけである。なお白石氏の講演の論拠は白石太一郎(2013)に詳しく語られているから、そこに記載されている根拠自体に正当に反論しなければ、正当に批判したことにはならない。

参考文献

  1. 古代史の散歩道 など」ブログ、,2023-01-09参照
  2. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改1/5」,2023-01-09参照
  3. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈増改2/5」,2023-01-09参照
  4. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈増改3/5」」,2023-01-09参照
  5. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改4/5」,2023-01-09参照
  6. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改5/5」,2023-01-09参照
  7. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  8. 重要文化財・三角縁三神二獣鏡,愛知県犬山市東之宮古墳出土,京都国立博物館蔵
  9. 黒塚古墳出土画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡,天理市
  10. 三角縁神獣鏡の成分分析,大阪大学
  11. 石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  12. (訳)今鷹真,小南一郎 (1993),陳寿(原作)裴松之(補注)『正史 三国志』筑摩書房
  13. 藤堂明保,竹田晃, 影山輝國(2010)『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社
  14. 私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「 中国正史 倭人・倭国伝全釈」+1/2 追補」ブログ、,2023-01-14参照
  15. 新・私の本棚 番外 白石 太一郎 「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」 再掲 1/1』,2023-01-28参照
  16. 白石太一郎(2013)『古墳から見た倭国の形成と展開』敬文社

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