七支刀(しちしとう)は石上神宮所蔵の身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した鉄剣である。国宝である。
全長74.8センチ、剣身の長さ65.6cm、茎は9.3cm。下から約3分の1のところで折損する。剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で刻まれる。解読は明治以降続けられてきた。
1874年(明治7年)、菅政友が石上神宮の大宮司として任命され、4年間在任した。菅政友は厳重に封印された木箱を開けると、六又鉾を見出した。鉄さびが全体を覆うが、ところどころ金色が見られ、錆の下に銘文があることき気づいた。
1874年(明治7年)、菅政友が石上神宮の大宮司として任命され、4年間在任した。菅政友は厳重に封印された木箱を開けると、六又鉾を見出した。鉄さびが全体を覆うが、ところどころ金色が見られ、錆の下に銘文があることき気づいた。
最初の2字は年号であるが、1字目は「泰」で問題ないとして、2字目は不明である。
泰和四年の解釈であるが、泰和の年号は存在しない。中国で「泰」がつく年号は泰始、泰常、泰豫である。
しかし中国の漢字音義通用の原則と、「泰」は「太」と字音と意味が同一であることから、泰和は太和と読み替えることができる。福山敏男?は、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげた。その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説ちなった。
ところが李進煕は反論を提示し、太和四年に続く五月十一日丙午という製作日付に注目した(十六日は偽作とする)。東晋太和では、干支日が合わないのである。北魏の太和四年(480年)とする合うと主張した。369年は百済の近肖王であるが、480年では百済の東城王となる。
また日付は吉祥句にすぎないとの意見もある。
泰和四年の解釈であるが、泰和の年号は存在しない。中国で「泰」がつく年号は泰始、泰常、泰豫である。
No | 年号 | 西暦 | 国 | 皇帝 |
1 | 泰始 | 265-274 | 西晋 | 武帝 |
2 | 泰常 | 416-423 | 北魏 | 明元帝 |
3 | 泰始 | 465-471 | 南朝宋 | 明帝 |
4 | 泰豫 | 472 | 南朝宋 | 明帝 |
ところが李進煕は反論を提示し、太和四年に続く五月十一日丙午という製作日付に注目した(十六日は偽作とする)。東晋太和では、干支日が合わないのである。北魏の太和四年(480年)とする合うと主張した。369年は百済の近肖王であるが、480年では百済の東城王となる。
また日付は吉祥句にすぎないとの意見もある。
福山敏男の解釈。
(表面)泰和四年正月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。 (裏面)先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。
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