蘇我日向(そがのひむか、7世紀中頃)は飛鳥時代の古代豪族?である。
「曽我日向子」とも記される。名は「身刺(むさし)」(大化5年)「身狭」「武蔵」「無耶志」。
「曽我日向子」とも記される。名は「身刺(むさし)」(大化5年)「身狭」「武蔵」「無耶志」。
大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄に倉山田大臣(蘇我倉山田麻呂?)が反乱しようとすると讒言した。蘇我倉山田麻呂大臣は息子の法師と赤猪を連れて、山田寺まで逃げたが蘇我日向と大伴狛が軍勢を差し向けたため自害した。倉山田大臣の最後の様子を中大兄に報告したところ、中大兄は倉山田大臣の無実を悟った。そこで中大兄は日向を太宰帥に任じた。世人は左遷と噂した。密通事件の密告を恨んでいた可能性もある。しかし、倉山田大臣を追い落とすため中大兄が仕組んだワナとの見方もある。左遷ではなく、栄転ではないかとの解釈もある。また同族の蘇我日向と蘇我倉山田麻呂?との抗争の見方もある。5年後には般若寺を創建しており、所在地が尼寺廃寺跡とすれば、九州には赴任していなかった可能性は高い。古代史の謎の一つであろう。
- (原文)戊辰、蘇我臣日向日向字身刺譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。
白雉五年(654年)、孝徳の病気平癒のため蘇我日向は般若寺を建立したとされる(東野治之(2013),p.85)。般若寺の場所には2説があり、一つは福岡県筑紫野市の般若寺跡(塔原廃寺)と二番目は奈良県香芝市の般若寺・般若尼寺(尼寺廃寺跡)である(東野治之(2013),p90)。規模や遺構からすると、後者が有力と考えられる。
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