縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

多治比三宅麻呂(たじひ の みやけまろ、生没年不明)は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族である。最高位は正四位上・左大弁である。

概要

父は多治比古王(丹比麻呂)、母は大伴比羅夫娘とされる。
初出は『続日本紀?』703年(大宝3年)、大宝令を全国に普及させる過程で「政績を巡省して冤枉を申理する」ため、東山道?に派遣された。各道毎に録事一人をつけ、国司、郡司の治績を巡視して、寃罪を申告させ、不正をたださせた。七道に一人ずつ派遣された。「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事についた。その働きが評価され、704年(慶雲元年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、貴族となる。七道に派遣された中では最も早い昇進である。707年(慶雲4年)文武天皇?の崩御に際して、正四位下犬上王、従五位上采女朝臣枚夫らと御装束司を務めた。元明朝では、秩父より和銅献上されたことから、「和銅」と改元される。催鋳銭司・造雑物法用司が初めて設置され、その長官となる。
711年(和銅4年)正五位上。715年5月、和銅8年(715年)従四位上・左大弁に叙任され、政治の中枢に位置する。717年(養老元年)この年、石上朝臣麻呂?の薨去に際し、式部卿正三位長屋王とともに弔賻(ちょうぶ)となり、天皇の名代として弔問に立ち、多胡碑に名前が登場する。718年(養老2年)、大納言に長屋王と阿倍宿奈麻呂、中納言に多治比池守と巨勢祖父・大伴旅人が任じられ、そして房前が朝政に参画した。
719年(養老3年)従四位下と弁官を務めながら順調に昇進し、9月8日に河内国摂官となる。722年(養老6年)1月20日、謀反を誣告したとされて、流罪により官位剥奪され、斬刑を命じられるが、皇太子の首皇子(のち聖武天皇)の奏請により死一等を免ぜられ、伊豆島に流される。同日、同じころに山陽道に派遣されていた正五位上穂積朝臣老も天皇を指斥したとして、佐渡島に長された。
  • (原文)壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。(『続日本紀』巻九養老六年(七二二)正月壬戌二十)
一説によれば、725年(神亀2年)6月22日配所で卒去したとされる。享年73。

後日談

「穂積朝臣老」は740年「長屋王」が排除された11年後に「京」に戻る事を許され、その後「聖武天皇」の遷都の際には「留守官」として「恭仁宮」に残っているなど、一度「流罪」になった人間としては稀有な扱いとなった。このとき、三宅麻呂はすでに亡くなっていた。

評価

能力があるが、早すぎる昇進でねたまれ、排斥された可能性がある。廟堂内で元明太上天皇の望んだ執政体制への不満との見方もある。さらに721年(養老5年)従四位上による参議になっていたとすれば、長屋王に反発していた新任参議の三宅麻呂を除いて、代わりに阿倍広庭(一説では長屋王の舅)を議政官に加えることにより太政官運営の円滑化を図ろうとしたとの説がある。そうであるなら、長屋王の陰謀にかかったといえる。
別説もある。元正天皇は元明天皇の娘であり、背後で政権を握るのは藤原房前であった。藤原房前と二人の関係は703年に七道へ派遣された7名の一人である。両人の早い出世を藤原房前がねたんだとも見られる。多治比真人三宅麻呂と穂積朝臣老は有能ながら、藤原政権につぶされたのは長屋王と同じであった。穂積朝臣老が京に戻ったことを考えると、長屋王主犯説が有力であるかもしれない。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 宝賀寿男(1986)『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会

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