縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

倭国乱(わこくらん, Civil War of Wa)は弥生時代におきたとされる倭国の内戦である。

概要

中国史書「魏志倭人伝」には次のように書かれている。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
(大意)その国に男王がいたが、70年から80年後に国は乱れ、攻撃しあい歳月を経た。

歴年とは中国では7-8年の長さであるという説がある。数年間戦乱が続いたという意味と考える。この記述だけでは、どこでいつどの程度の広がりの戦乱があったかは分からない。
そこで、考古学の証拠の助けを借りることになる。

戦乱の規模

春成秀爾によると「畿内では墓から石鏃や剣が刺さった例が出るが、すべて畿内の武器が畿内の人間に刺さっている」「九州地方で同じように鉄の矢じりや銅剣の先、あるいは銅鏃?が刺さった例があるが、これも九州の武器が九州の人間に刺さっている」(参考文献1,p.54)。ゆえに弥生の戦乱は局地戦であって九州あるいは畿内の集団間の闘争と評価できるという。大規模な九州対畿内の戦いの証拠はないとする。この時代ではまだ全国的な戦さをする動員力は政権になかったと解釈されている。

魏志倭人伝に卑弥呼が共立されたという記事があるが、これは各地地域の話し合いにより、首長に選出されたという意味に解釈したい。弥生時代の倭の国はそれぞれ村という規模である。

戦乱の時期

石部正志は「弥生時代の終わりにいくつかの原始共同体を統合した首長が特定の役割を果たし、階級社会が始まり、副葬品をもつ墓が登場する」としている(参考文献1,p.49)。
弥生時代の終わりころは高地性集落が近畿地方に集約されるようになる(参考文献1,p.76)。大型古墳が登場するための前提としての争乱が近畿地方であったことが想定できる。
争乱は3回あったと考える。
  • 弥生時代中期の争乱 - 高地性集落に関わる争乱。中国文献には書かれない。
  • 2世紀の終わりの争乱 - 180年前後。
  • 卑弥呼死後の争乱 –男王の擁立後の争乱で 1000人が殺戮され、宗女が擁立される。

二世紀後半の争乱

 「桓霊の間の争乱」である。『魏志』『後漢書』に記される。石野博信は争乱に関わったのは、近畿弥生社会と考える(参考文献1,p.134)。一方、都出比呂志は近畿弥生社会と九州弥生社会との間の争乱と考える。「後期の段階において近畿地方だけでなく、瀬戸内海の西の端までを包み込むような一つの戦闘状態、緊張関係があったと考える」(参考文献1,p.90-91)

参考文献

  1. 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社

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