饒速日命(にぎはやひのみこと)は古代の豪族物部氏の祖神である。古事記では「邇藝速日命」(にぎはやひのみこと)とする。
日本書紀では饒速日命は彦火火出見(即位前の神武の名前とされる)が長髄彦と奈良県生駒市付近で交戦したとき、長髄彦は饒速日命に仕えているものであるとして、天羽羽矢と歩靫を示した。彦火火出見は饒速日命が忠誠を示したので、部下とした。
饒速日命は彦火火出見より前に天磐船に乗って大和に天下り、長髄彦の妹の三炊屋媛と結婚して可美真手命を生んだとされる。
饒速日命は彦火火出見より前に天磐船に乗って大和に天下り、長髄彦の妹の三炊屋媛と結婚して可美真手命を生んだとされる。
『先代旧事本紀』によれば、饒速日命は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記される。饒速日は西暦185年頃に東遷したとされ、北部九州から大部隊で河内国と大和国へやってきた。東遷に従った人ものは、先代旧事本紀によれば遠賀川と筑後川沿岸部の物部族と共に、天太玉命(忌部)・天糠戸命(鏡作)・天造日女命(安曇)・天背男命(海部)・天香語山命(尾張)・鴨・天日神命(対馬)・天月神命(壱岐)・天三降命(宇佐)などの海人族、高皇産霊の子や孫が含まれており、25軍団がある。大集団の移動・移住である。
森浩一の見解によれば、彦火火出見の東征には次の不審な点がある(森浩一(2022))。
- 彦火火出見を祭神とする古代の神社は存在しない
- 東征時に参加した人々や船の記述に具体性がない
- 東征の道筋が不可解である
- 吉備の高島に8年いた間の説明がなにもない
- 彦火火出見が日向を出発してから山戸まで18年を要するのは長すぎる
森浩一の見解によれば、饒速日の東征は信頼できる面がある(森浩一(2022))。
- 饒速日を祭神とする古代の神社は多数ある
- 饒速日の古代の墳墓がある
- 東征時に参加した人々が具体性に書かれている
- 東征の道筋に不自然さがない
- 河内平野の地形の変遷を踏まえた記述になっている。
- 饒速日は長髄彦の入り婿となったので戦っていない。平和的に統合した。
前記の森浩一の見解からインスパイアされた仮説を考えた。
(1)彦火火出見の東征物語は架空だった説は説得力がある。そもそも神武から第2代綏靖から第9代開化までの8代の大王は「欠史八代」といい、『帝紀』的な系譜情報のみしかなく、旧辞』の部分、物語や歌謡など具体的な活動や存在の痕跡に欠けている。すなわち後世の創作によるものであり、実在した可能性はゼロに近い。また、彦火火出見についても祀る古代の神社がないなど、非常に影が薄い。つまり架空の存在であったといえよう。また「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)は神武と崇神とが言われている。創始者が二人いるのは不自然である。したがって神武東征は饒速日命の東征を参考にして、日本書紀の編纂時に創作物部氏の祖神は饒速日(ニギハヤヒ)だが、『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と書かれる。「天照国照彦」の名前は天照大神を思わせる。
(2)物部氏が九州から大和に大移動し、三輪山の麓に移住し、初期ヤマト政権を樹立したのでなかったか。ここで戦乱があったという考古学的な証拠はないことから、平和裏に移住したとも考えられる。九州に物部の同族は多数ある。九州北部では筑後国の三瀦・山門・御井・竹野・生葉の各郡を中心として、筑前国では嘉麻・鞍手両郡・西には肥前国の三根・松浦・壱岐に広がっている。物部の東遷を裏付ける。
(3)三輪山にある大神神社の祭神は大物主である。物部系の神社では、現在でも古代より続く古神道が守られている。石上神宮、物部神社?、彌彦神社?などである。物部氏は古代の大豪族であった。大物主神の名称は「倭大物主櫛甕魂命」である。また『先代旧事本紀』によれば饒速日命の名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」である。大物主神の「物」は「物部氏」を意味していたのではないか。
(4)三輪山の麓の纏向には、古代ヤマト政権の宮殿があった(纏向遺跡の出土)。大連の「連」とは連合政権時代の名残である。つまり、あるときまで共同統治していた可能性がある。卑弥呼から崇神までの初期ヤマト政権において、物部氏は中心的存在の一つと言えるのが「連」の意味であろう。「臣」より上位である。その証拠に、日本書紀で、物部が蘇我に仏像を捨てるよういわれて、その時点ではいうことをおとなしく聞く関係であった。これは蘇我が物部を武力で打ち破るまで続いた。
(5)崇神より後は、本拠地が移動しているので、物部とは別系統であろう。崇神の母親は物部系である(日本書紀)。これは崇神自体が物部系であったと見ることができる。
(1)彦火火出見の東征物語は架空だった説は説得力がある。そもそも神武から第2代綏靖から第9代開化までの8代の大王は「欠史八代」といい、『帝紀』的な系譜情報のみしかなく、旧辞』の部分、物語や歌謡など具体的な活動や存在の痕跡に欠けている。すなわち後世の創作によるものであり、実在した可能性はゼロに近い。また、彦火火出見についても祀る古代の神社がないなど、非常に影が薄い。つまり架空の存在であったといえよう。また「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)は神武と崇神とが言われている。創始者が二人いるのは不自然である。したがって神武東征は饒速日命の東征を参考にして、日本書紀の編纂時に創作物部氏の祖神は饒速日(ニギハヤヒ)だが、『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と書かれる。「天照国照彦」の名前は天照大神を思わせる。
(2)物部氏が九州から大和に大移動し、三輪山の麓に移住し、初期ヤマト政権を樹立したのでなかったか。ここで戦乱があったという考古学的な証拠はないことから、平和裏に移住したとも考えられる。九州に物部の同族は多数ある。九州北部では筑後国の三瀦・山門・御井・竹野・生葉の各郡を中心として、筑前国では嘉麻・鞍手両郡・西には肥前国の三根・松浦・壱岐に広がっている。物部の東遷を裏付ける。
(3)三輪山にある大神神社の祭神は大物主である。物部系の神社では、現在でも古代より続く古神道が守られている。石上神宮、物部神社?、彌彦神社?などである。物部氏は古代の大豪族であった。大物主神の名称は「倭大物主櫛甕魂命」である。また『先代旧事本紀』によれば饒速日命の名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」である。大物主神の「物」は「物部氏」を意味していたのではないか。
(4)三輪山の麓の纏向には、古代ヤマト政権の宮殿があった(纏向遺跡の出土)。大連の「連」とは連合政権時代の名残である。つまり、あるときまで共同統治していた可能性がある。卑弥呼から崇神までの初期ヤマト政権において、物部氏は中心的存在の一つと言えるのが「連」の意味であろう。「臣」より上位である。その証拠に、日本書紀で、物部が蘇我に仏像を捨てるよういわれて、その時点ではいうことをおとなしく聞く関係であった。これは蘇我が物部を武力で打ち破るまで続いた。
(5)崇神より後は、本拠地が移動しているので、物部とは別系統であろう。崇神の母親は物部系である(日本書紀)。これは崇神自体が物部系であったと見ることができる。
櫛玉饒速日命は大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也・・・ 夫より大和国鳥見白峯に移玉ひ其里に長髄彦有り、其妹炊屋姫を娶り映伝の中に速日命神去り玉ふ。夢の御告あり、御弓矢及び御衣は鳥見白庭に葬り、陵となす、今に鳥見の弓塚と云ふ。
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