縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

嶋宮跡(しまのみやあと)は、奈良県明日香村に飛鳥時代の宮の跡である。

概要

飛鳥川に面する河岸段丘上に位置し、石舞台古墳付近から西側一帯に広がる。「嶋宮」の範囲は『万葉集』に、「橘の嶋宮」と書かれるとおり、現在の島庄から飛鳥川の西側、東橘までを含む広い範囲にわたると想定されている。

調査

1972年以降、奈良県立橿原考古学研究所によって20次に及ぶ発掘調査が行われ、掘立柱建物や石溝、池跡が発掘されている。蘇我馬子の嶋宅、あるいは後の草壁皇子?が住んでいた嶋宮の推定値である。しかし天武朝の時代の遺構はまだ発見されていない。

遺構

島庄遺跡は嶋宮推定地一帯に広がる縄文時代以降の複合遺跡である。島庄遺跡から嶋宮の一部と見られる建物跡が出土している。島庄遺跡の飛鳥時代の遺構としては一辺約40mの方形池や石組暗渠・曲溝・川跡・小池・掘立柱建物等が検出された。柱穴が一辺1m以上もある大型建物であり、7世紀前半と後半に推定されることから、蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や「嶋宮」の時代とも重なる。
島庄には『日本書紀』や『万葉集』の記述から蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や草壁皇子の「嶋宮」が存在したとされており、蘇我馬子の邸宅には池をもつ庭園があったことが知られている。

遺物

出土遺物については縄文土器・土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・瓦・石器などがあり、特に縄文土器(後期後半)やサヌカイトの剥片が多く出土している。

蘇我馬子

蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれていた。その名の由来については、『日本書紀』推古天皇34年条に「飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ」と書かれる。飛鳥川の畔の家は、現在の明日香村島庄にあったとする説が有力である。石舞台古墳の横の坂道を下ると、右手の食堂のさきに、他の畦とは方向を違えて田圃の畦が「く」の字形に曲がるところがある。発掘調査により「池田」とよばれていたこの場所に、一辺が42メートル、深さ2メートルほどの隅丸方形の石組み池があることが判明した。池の中や周囲から7世紀前半の土器・瓦が出土している。池の周囲に幅10mの堤があり、池の岸は、径約50cmの自然石を、2段から4段に垂直に積み上げられている。池の底にも石が敷かれ、水源は池底に設けられた井戸を利用し、木樋によって排水する仕組みであった。

史跡

アクセス等

  • 名称:嶋宮跡
  • 所在地:奈良県高市郡明日香村島庄
  • 交通: 赤かめ周遊バス石舞台下車すぐ

参考文献

  1. 奈良県立橿原考古学研究所(1987)『島庄遺跡(20次)発掘調査概要』奈良県教育委員会
  2. 大塚初重1995()『日本古代遺跡辞典』吉川弘文館

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