縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州にあったという説である。

概要

魏志倭人伝を字句通りに読むと、日本列島から大きく外れ、邪馬台国ははるかに遠い南方の海上になってしまい、現実と合わない。そこで、邪馬台国の位置論争が生じた。
邪馬台国の所在地に関する学説のうち有力なものを大別すると、九州説と近畿説とがある。
本稿は、このうち九州説の内容と論拠の概要をまとめたものである。

九州説による比定地

九州説が示す邪馬台国の位置は、各種ある。
No学説所在地遺跡古墳提唱者文献
1筑後山門説熊本県菊池郡山門藤の尾垣添遺跡?
鉾田遺跡?
車塚古墳?白鳥庫吉日本上代史研究
2筑前甘木朝倉説福岡県朝倉市平塚川添遺跡小田茶臼塚古墳?安本美典?邪馬台国への道
3久留米説福岡県久留米市市ノ上東屋敷遺跡祇園山古墳?植村清二?邪馬台国・狗奴国・投馬国
4八女説福岡県八女市室岡遺跡?
北山今小路遺跡?
車塚古墳?中堂観恵?邪馬台国
5吉野ヶ里説佐賀県吉野ヶ里遺跡吉野ヶ里遺跡北墳丘墓奥野正男吉野ヶ里遺跡の謎

論拠

No論点内容
1距離帯方郡から女王國までの距離12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里なので、残りの1,500里は九州内に収まるとする。
2短里説魏志倭人伝の行程を魏時代の1里(約414m)ではなく「短里」(75〜90m)にすれば、邪馬台国は九州に収まるとする。
3方角邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとの記述から、九州の方角になると主張する。
4埋葬方法魏志倭人伝に「槨なし」(有棺無槨)と記述されていることから、槨を持つ近畿の古墳はあてはまらず、北九州地方に甕棺による直葬が該当すると説く。
5放射説榎一雄の放射説?に基づくと、邪馬台国は九州に収まると主張する。
6古墳時代の開始時期4世紀の開始を取るので、邪馬台国の時期から50年程度遅くなる。

問題点

邪馬台国九州説の問題点は以下の通り
  • 距離
    • 「帯方郡から女王國までの距離12,000里」がそもそも観念的な数字であるし、他の数字も根拠不明の数字なので、その距離を元に位置を出しても意味はない。
  • 短里説
    • 魏志倭人伝全体で、短里を採用しているという証拠はない。単に倭国の地域に当てはまるよう、数字のつじつまを合わせただけである。
  • 方角
    • 邪馬台国が会稽の東にあるとするなど、魏志倭人伝の方角感・地理感に問題がある。
  • 槨なし
    • 槨なしは倭人の習俗について書いているので、王墓の墓について言っていることではない。卑弥呼の墓の造成過程(埋葬するタイミング)を現地で見ていたわけではないであろう。
  • 前方後円墳
    • 最近の研究によれば、前方後円墳の開始時期は3世紀中頃に繰り上がる。
  • 適切な遺跡や古墳がないこと
    • 邪馬台国にふさわしい規模の3世紀の遺跡(集落跡)と古墳(王の埋葬墓)が九州内では見つからない。

参考文献

  1. 榎一雄?(1960) 『邪馬台国』至文堂
  2. 関川尚功?(2020)『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』梓書院
  3. 片岡 宏二(2011)『邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説』雄山閣
  4. 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった:解読された倭人伝の謎』ミネルヴァ書房
  5. 佐伯有清(2006)『邪馬台国論争』岩波書店
  6. 古田史学の会(2016)『邪馬壹国の歴史学:「邪馬台国」論争を超えて』ミネルヴァ書房
  7. 白鳥庫吉(1969)「日本上代史研究」『白鳥庫吉全集〈第1巻〉』岩波書店
  8. 安本美典?(1998)『邪馬台国への道』梓書院
  9. 奥野正男(1989)『吉野ケ里遺跡の謎―よみがえる邪馬台国』PHP研究所
  10. 植村清二?(1955)「邪馬台国・狗奴国・投馬国」『史学雑誌』64(12) ,pp.1097〜1108

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