邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州にあったという説である。
魏志倭人伝を字句通りに読むと、日本列島から大きく外れ、邪馬台国ははるかに遠い南方の海上になってしまい、現実と合わない。そこで、邪馬台国の位置論争が生じた。
邪馬台国の所在地に関する学説のうち有力なものを大別すると、九州説と近畿説とがある。
本稿は、このうち九州説の内容と論拠の概要をまとめたものである。
邪馬台国の所在地に関する学説のうち有力なものを大別すると、九州説と近畿説とがある。
本稿は、このうち九州説の内容と論拠の概要をまとめたものである。
No | 論点 | 内容 |
1 | 距離 | 帯方郡から女王國までの距離12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里なので、残りの1,500里は九州内に収まるとする。 |
2 | 短里説 | 魏志倭人伝の行程を魏時代の1里(約414m)ではなく「短里」(75〜90m)にすれば、邪馬台国は九州に収まるとする。 |
3 | 方角 | 邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとの記述から、九州の方角になると主張する。 |
4 | 埋葬方法 | 魏志倭人伝に「槨なし」(有棺無槨)と記述されていることから、槨を持つ近畿の古墳はあてはまらず、北九州地方に甕棺による直葬が該当すると説く。 |
5 | 放射説 | 榎一雄の放射説?に基づくと、邪馬台国は九州に収まると主張する。 |
6 | 古墳時代の開始時期 | 4世紀の開始を取るので、邪馬台国の時期から50年程度遅くなる。 |
邪馬台国九州説の問題点は以下の通り
- 距離
- 「帯方郡から女王國までの距離12,000里」がそもそも観念的な数字であるし、他の数字も根拠不明の数字なので、その距離を元に位置を出しても意味はない。
- 短里説
- 魏志倭人伝全体で、短里を採用しているという証拠はない。単に倭国の地域に当てはまるよう、数字のつじつまを合わせただけである。
- 方角
- 邪馬台国が会稽の東にあるとするなど、魏志倭人伝の方角感・地理感に問題がある。
- 槨なし
- 槨なしは倭人の習俗について書いているので、王墓の墓について言っていることではない。卑弥呼の墓の造成過程(埋葬するタイミング)を現地で見ていたわけではないであろう。
- 前方後円墳
- 最近の研究によれば、前方後円墳の開始時期は3世紀中頃に繰り上がる。
- 適切な遺跡や古墳がないこと
- 邪馬台国にふさわしい規模の3世紀の遺跡(集落跡)と古墳(王の埋葬墓)が九州内では見つからない。
- 榎一雄?(1960) 『邪馬台国』至文堂
- 関川尚功?(2020)『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』梓書院
- 片岡 宏二(2011)『邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説』雄山閣
- 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった:解読された倭人伝の謎』ミネルヴァ書房
- 佐伯有清(2006)『邪馬台国論争』岩波書店
- 古田史学の会(2016)『邪馬壹国の歴史学:「邪馬台国」論争を超えて』ミネルヴァ書房
- 白鳥庫吉(1969)「日本上代史研究」『白鳥庫吉全集〈第1巻〉』岩波書店
- 安本美典?(1998)『邪馬台国への道』梓書院
- 奥野正男(1989)『吉野ケ里遺跡の謎―よみがえる邪馬台国』PHP研究所
- 植村清二?(1955)「邪馬台国・狗奴国・投馬国」『史学雑誌』64(12) ,pp.1097〜1108
タグ
コメントをかく